日本の戦後の、戦後じゃない韓国【映画】『国際市場で逢いましょう』
Netflixで「国際市場で逢いましょう」を観よう!
隣人に寄り添いたくなる、そんな映画でした。
隣人というのは、職場や近所の近くにいる人だったり、家族だったり、友だちだったり。
それから、長い歴史を共にしてきた隣の朝鮮半島の人々。
舞台は、韓国。日本でいう戦後の時代。
子どもの頃に朝鮮戦争で父と妹と離れ離れになった主人公のドクス。その後、家族を支えるため出稼ぎに行った西ドイツの炭鉱で事故にあったり、ベトナム戦争で民間技術者として行くも、現地ではベトコンとの銃撃戦に巻き込まれるなど生命の瀬戸際に何度も直面するドクス。
どんな時でも人のために動けるドクスの優しさや強さが溢れていて、主人公の人間味にも惹かれるものがあると同時に、自分の知らない時代の生々しさを感じることができる作品でとても印象に残っています。
- 韓国人出稼ぎ労働者の劣悪な労働環境
西ドイツ鉱山での韓国人出稼ぎ労働者の扱われ方は劣悪。まるで奴隷のようです。祖国を思い夜な夜な涙を流す男の人たちは、発展途上の祖国で待つ家族たちに大金を持って凱旋帰国することを目標に、仲間たちと共に日々を耐え抜いていました。
- 韓国の成長
ストーリーの中には、実在の韓国偉人が数名出てきます。ドクスが子どもの頃に靴磨きをしたおじさんが後のヒュンダイ創立者のチョン・ジュヨンだったり、店で売ってた生地を買いに来たのがデザイナーのアンドレキムだったり、焼肉屋で食事をしていた相撲部の少年の1人がイマンギだったり。
「韓国で巨大な船を作るんだ!」と語るおじさんを、「頭をやられてる!”車も国産で”とか言いだしそう」なんて冷ややかに見る子どもは、現代の現代を知る者からするとおもしろい(笑)
まだ苦しい日々が続く時代から、華やかな発展を遂げる韓国の時代につながっていくようすが映画の随所から見て取れます。
- ベトナム戦争と民間人
1973年にドクスは技術者としてベトナムに向かいます。戦地でベトコンと米軍の両方から情報を強要された民衆が、「このままではベトコンに殺されてしまう」と、韓国軍とドクスたちに助けを求めくるシーン。映画の中ではあまりない戦闘シーンで、韓国で有名な歌手ナムジンが軍人として登場します。韓国の俗世日常と並行して戦争があったことを感じさせる場面です。
国内に北と南の力があり、外国軍が進駐し、民衆は逃げるしかない状況。ベトナム戦争も、朝鮮戦争と同じく祖国が分断された戦争であり、きっと思いを重ねる部分も多いだろうと思います。
あの悲惨な時代を過ごしたのが、苦しみを味わったのが、子どもたちじゃなく僕たちでよかった。
ドクスはベトナムから妻へこんな手紙を書いています。妻との出会いは西ドイツで、彼女もまた家族のために出稼ぎに来ていた時でした。
子どもには苦労をさせたくないという思いって、人をこんなにも強くさせるのかと、偉大さを感じます。
- 分断された家族
1950年12月、ビクトリー号 興南埠頭から退却
このとき、ドクスの家族は生き別れに。
1953年 停戦
「休戦」の意味がわからず、戦争が終わったなら地元に帰れるのではと希望を持つ少年ドクスと母ですが、興南は38度戦以北にあり、望みは叶いません。
1983年夏、ソウル 汝矣島(ヨイト)広場
広場一面、建物のあちらこちらに人訪ねの紙が敷き詰められていて、プラカードを掲げた人や離れ離れになった家族の手がかりを探す人々でひしめき合っています。
この頃、朝鮮戦争で生き別れになった家族を探す、KBS放送の特別企画「この人を知りませんか」が放送されていました。
30年ぶりに再会を果たした家族のシーンは胸が熱くなるものがあります。
同時に、テレビでその模様をみて、いつか自分も家族と再会できるかもしれないという期待を持ちながらも叶わなかっただろう人々の辛さを想像すると、やるせない気持ちにもなります。
日本にとっては戦後でも、すぐ隣の半島では戦争が続いていて、それは未だに停戦状態のまま。そんなことを再確認できる映画でした。
それだけでなく、そんな中でも力強く生きる人々のパワーを感じる映画でした。
監督のインタビュー記事
終戦・停戦後の、何もないマイナスの状態からでも、「チョコレート・ギブミー」の時代から、この東アジアの国々は成長を遂げてきたわけです。
オリンピックだって、複数回も開催している。
これから冬の平昌、夏の東京、そして冬の北京と、東アジアの三国に注目の集まる時期が続きます。
学生時代の専攻がアジア地域でベトナムに短期留学していた自分にとっては、なんだか胸アツな要素が満載の2時間でした🙇♂️